諸侯が選んだ息子
啓は禹の息子で、母は塗山氏の娘である。『史記』の即位の記述では、父子の間にもう一人の男が置かれている。禹は益に後継を託すが、諸侯は啓に心を向ける。その選択は、啓自身の徳と、先代の君主との関係の両方によって説明される。
益讓帝禹之子啓 ,而辟居箕山之陽。禹子啓賢,天下屬意焉。及禹崩,雖授益 , 益之佐禹日淺,天下未洽。故諸侯皆去益而朝啓 ,曰「吾君帝禹之子也」。於是啓遂即天子之位,是爲夏后帝啓。
「益は帝禹の息子である啓に位を譲り、箕山の南側に退いた。禹の息子の啓は賢明で、天下は彼に心を寄せていた。禹が亡くなったとき、後継を益に託してはいたものの、益が禹を助けた期間は短く、天下はまだ彼に親しんでいなかった。そこで諸侯はみな益を離れ、啓に朝見して、『我らの君主、帝禹の息子である』と言った。こうして啓は天子の位に就き、夏后帝啓となった。」 — 『史記』「夏本紀」、訳:Mythos Atlas
益は箕山の南側に退く。物語によれば、益が禹を助けた期間は短く、まだ天下の信頼を得ていなかった。諸侯は益のもとを去って啓に朝見し、啓を自分たちの君主の息子と呼ぶ。啓はその後、夏の君主として天子の位に就く。
この記述は、王位継承を世襲の論拠を伴う政治的な選択として描く。啓の徳も挙げられるが、諸侯自身が彼のもとに赴く理由として述べるのは、禹の息子であるということだ。『史記』はさらに、啓の死後、その息子である太康が跡を継ぐことを記している。
甘の戦いを前にした誓い
有扈氏の君主が服従を拒み、啓は攻撃する。『史記』は、甘で大きな戦いを行い、その戦いの前に誓いを述べた王を啓とする。『尚書』にはその言葉自体が残るが、本文では王の名を挙げていない。ジェームズ・レッグは、広く行われている伝承では、この話者を禹の息子で後継者の啓とする、と指摘している。
誓いから選んだ以下の部分は、戦車部隊の中での責任を割り振り、服従を賞罰に結びつける。
左不攻于左,汝不恭命;右不攻于右,汝不恭命;御非其馬之正,汝不恭命。用命,賞于祖;弗用命,戮于社,予則孥戮汝。
「左側の者(弓兵)が左側で自分の仕事をしないならば、それは私の命令を軽んじることになる。右側の者(槍兵)が右側で自分の仕事をしないならば、それは私の命令を軽んじることになる。御者が馬を扱う規則を守らないならば、それは私の命令を軽んじることになる。私の命令に従う者は、私の祖先(の霊)の前で賞せられる。私の命令に従わない者は、土地の霊の祭壇の前で殺され、私はお前たちの子供も殺すであろう。」 — 『尚書』「甘誓」、ジェームズ・レッグ英訳
原文は左右にいる者と御者に命じている。レッグは訳の中で、その説明として弓兵と槍兵を補う。指示は、戦うことと馬を扱うことを王の命令に結びつける。祖先の前での褒賞が約束される一方、命令に背けば土地の祭壇で処刑され、違反者の子供に対するさらなる脅しも伴う。
『史記』は、言葉の後の展開も記す。有扈氏は滅ぼされ、すべてが朝見する。誓いとその後の物語は合わせて、啓の即位と並ぶ軍事的な行為を示し、規律ある奉仕と厳しい処罰を、彼が支配を主張する根拠の一部としている。
天の音楽を携える君主
『山海経』は、より並外れた夏の君主を記憶する。西方の海の外にある土地を描く記述で、啓は名のある舞を舞い、二頭の龍に乗り、儀礼の品を携えている。
大樂之野,夏后啟于此儛九代;乘兩龍,雲蓋三層。左手操翳,右手操環,佩玉璜。
「大楽の野では、夏の啓が九代を舞う。二頭の龍に乗り、三層の雲の天蓋を戴く。左手には翳を、右手には環を持ち、玉の璜を身につける。」 — 『山海経』「海外西経」、訳:Mythos Atlas
この一節では、右手に環を持ち、玉の璜を身につける。左手の品の意味はそれほど確かではない。このサイトの訳では、その形を決めず、文字で記された名のままにしている。
大荒の記述は、その人物を夏后開と呼ぶ。郭璞の注釈は、この開を啓と同一人物とし、名の変更を、漢の景帝の個人名を避けるためと説明する。その人物は耳に緑の蛇をつけ、二頭の龍に乗る。続く短い一節は、彼を天から下ろされた音楽に結びつける。
得九辯與九歌以下。此天穆之野,髙二千仞,開焉得始歌九招。
「九辯と九歌を得て、下へ持ち帰った。ここは高さ二千仞の天穆の野であり、開が初めて九招を演じた場所である。」 — 『山海経』「大荒西経」、訳:Mythos Atlas
本文は九辯と九歌を降下に結びつけ、九招の上演の始まりを天穆に置く。西方についてのこの二つの記述は、夏の王位に就き、甘で軍を指揮する王と並んで、音楽の行為と際立った儀礼の持ち物を通じて啓を伝えている。