アメミットの図像
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エジプト · 怪物

アメミット

大天秤のかたわら、アヌビスの背後で待ち、羽根と釣り合わなかった心臓を喰らう怪物。

アム・ミット · 死者を喰らう者 · アメンティを貪り喰らう者

喰らう相手
オシリスの審判で断罪された者たちの心臓
象徴
鰐の頭、獅子の前肢と肩、河馬の後肢、大天秤

アンプの背後の怪物

『アニのパピルス』の場面を語るバッジは、大天秤のかたわらに並ぶ者たちを順に辿り、誰がどこに立つかを名指ししていく。バッジの言うアンプとは、本ウィキがアヌビスと呼ぶ神であり、その肩ごしに控える書記はトトである。彼女はその列の最後、二柱のさらに後ろに来る。

アンプの背後にいるのは、神々の書記トトと、怪物アメミットである。アメミットは鰐の頭、獅子の前肢と肩、そして河馬の後肢をもつ。この最後の者の務めは、天秤の上で軽かった心臓を食い尽くすことであった。 — E・A・ウォリス・バッジ『死者の書』(一九〇一年)「オシリスの審判」

この一文について、はっきり言っておくべきことが二つある。一つは名前である。バッジはここでアメミットと綴り、『エジプト人の神々』ではアム・ミット、同じ著作の別の箇所ではアメメトと綴る。近代の標準綴り――英語ではアミットとなり、本ウィキの英語版の見出しでもある綴り――を、彼は一度も書かない。日本語版の見出し「アメミット」は、その近代綴りではなくバッジ自身の綴りに由来しており、アヌビスの項が書かれたときから本ウィキはこの形を用いてきた。したがって日本語では、引用のなかの名と見出しの名がたまたま一致するが、英語ではそうならない。これは本ウィキが、バッジの綴りと近代の綴りが食い違うところで一貫して保ってきた区別と同じものである――セシャトと彼のセフケト・アアブト、セクメトと彼のセケト。ただし日本語では、見出しのほうがバッジの側に立っている。

もう一つは身体である。三つの動物が三つの場所に――前に鰐、中ほどに獅子、後ろに河馬――そしてそこに一つの務めが結びつけられ、職務規定のような素っ気なさで述べられる。バッジはここで解読すべき象徴を示してはいない。彼は挿絵に描かれているものを記述しているだけである。この一文を注意深く読むべき理由は、同じ生き物についての彼自身のもう一つの記述が、これと食い違っているからである。

アヌビスが投げ与える心臓

彼女は狩らない。バッジは彼女が選ぶところを一度も描かない。秤量を見守るのは別の神であり、それに耐えなかったものが彼女に手渡される。

秤量の行為は、死者の神アヌビスによって注意深く見守られた。羽根と正確に釣り合わなかった心臓を、死者を喰らう者へと投げ与えるのが、彼の務めであった — E・A・ウォリス・バッジ『エジプト人の神々』(一九〇四年)第一巻、二〇頁

バッジは両者に同じ語を使う。務め、である。アヌビスの務めは投げ与えること、彼女の務めは喰らうこと。二柱のあいだに嘆願はなく、猶予もなく、食欲さえない――羽根と正確に釣り合わない心臓が、ただ一つの職掌から次の職掌へと渡されるだけである。その羽根が誰のものかは、この二つの一節のどちらにも書かれていない。本ウィキのマアトの項は、バッジについて同じことをより詳しく述べている。彼の語り口において、羽根は真実と正義そのものであって、一柱の女神の持ち物ではない。

バッジは第二巻で、エジプト人がこの危険をどう思い描いていたかをよく示す一点を書き加えている。アヌビスが気を配ることの一つは、自分の管理に委ねられた身体が、手違いによって死者を喰らう者へ引き渡されてしまわないようにすることだ、と彼は書く。警戒されているのは、心臓が足りないと判じられることだけではない。事務上の取り違えである。

アニを彼女から遠ざける裁定

トトが結果を読み上げ終えると、神々の大いなる会衆がそれに応える。彼女の名は、その応答の途中に現れる。

オシリスたるもの、書記アニは、声正しき者として証しを立てた。彼は罪を犯さず、[彼の名は]我らの前で悪臭を放たない。アメミット(すなわち死者を喰らう者)が彼を支配することはない。彼には食物の供物と、オシリスの御前に立つことと、ホルスの従者たちに与えられるがごとき供物の野の永続の住まいとを与えよ。 — E・A・ウォリス・バッジ『死者の書』(一九〇一年)「オシリスの審判」

ここで彼女が名指しされるのは、彼女に何かを拒むためである。これらの文書における彼女の登場は、ほとんどすべてこの形をとる。神々が彼女について語るのは、彼女に与えられないものを言うときだけであり、そのあと神々は、無罪となった者に与えられるものを列挙しはじめる――食物の供物、オシリスの御前に立つこと、供物の野の住まい。これがどういう種類の文書であるかは思い出しておくとよい。葬祭パピルスとは、その持ち主の潔白を主張するために注文された弁論であり、名を記されたその人のために作られている。だからそのなかで彼女が飢えるのは当然である。心臓が実際に軽かったとき彼女が何を得るのかは、これらの頁のどこにも記されていない。

責め苦ではなく、終わり

バッジは第二巻で、オシリスを裁き手として論じるくだりの途中に、彼女の背後にある教理をはっきり述べている。オシリスの審判の広間で断罪された者たちの魂はただちに貪り喰われるものとされ、ある見方からすれば、悪しき者への罰とは消滅そのものであった、と。それは地獄ではなく、服すべき刑期でもない。生き続けるはずだったものが取り除かれるということである――供物も、住まいも、神の御前に立つことも、右の裁定がアニに与えた未来のすべてが、ただ起こらない。

これほど証言の乏しい存在について、正直に記しておくべきことが二つある。バッジは彼女が何であるかについて一貫していない。彼はどこでも彼女を「怪物」と呼び、第二巻のある箇所では彼女を指して物を指す関係代名詞を用い、別の箇所では「彼」と書く。本項の日本語訳が彼の称号を女性形にしないのも、彼自身の本文がそうなっていないからである。それでも本項は「彼女」と書く。これは本ウィキの慣行であって、バッジが決めたことではない。コーパスの他の箇所も決めてはいない――アヌビスの項は書かれたときから六つの言語すべてで彼女を名指ししているが、彼女を指す代名詞を一度も必要としておらず、したがってどちらの立場も取っていない。本項のどの引用にも、その代名詞は含まれていない。そして彼女には、ほかに何も与えられていない――両親も、祭儀も、台詞も、彼女自身の挿話もない。本項の背後にある三巻のどこにも、彼女が行為する場面はない。彼女がもつのは、代わりに、一つの持ち場と一つの務めであり、そのどちらもが、他の誰かの肩ごしに記述されている。